終戦75周年を迎えるにあたり…人類史上初の原子爆弾が75年前に爆発したとき最もショックを受けたのは、「原爆の父」と言われるロスアラモス国立研究所初代所長、物理学者ロバート・オッペンハイマー本人だったかもしれません。
この記事はもともと、『ポピュラー・メカニクス』誌1985年8月号に掲載されたものになります。アメリカ軍は1945年7月16日に、「Trinity Nuclear Test(トリニティ実験)」を行いました。2020年7月で三四半世紀を経過したことで、ここで振り返りたいと思います。この実験名を聞く以前に、前段の内容からすでに察しがついている方も少なくないでしょう。これは広島・長崎への投下を前に行ったテストであり、核爆弾の力を世界で初めて知らしめた実験なのです。それは「洪水になるかもしれない⁉」と心配になるほどの豪雨が、一日中降り続けた翌日の朝のこと…。
豪雨の中、ニューメキシコ州ソコーロ近くの給油所の封鎖を手伝っていたノーバート・ディアさんはその翌日、猛烈な雷雨と風によって寝つけず遅くまで起きていたそう。そして、ようやく寝つくことができた5:30ごろ、これまで続いた猛烈な雷よりもはるかに恐ろしい『終末的な』爆発音を聞き、ベッドから放り出されることになるのです。
「州警察はそのとき、アメリカ陸軍キャンプでの偶発的な爆発事故だった』と言っていた…」と、連邦情報自由法に基づいて国防総省が『ポピュラー・メカニクス』に公開した文書の中で、ディアさんのコメントが掲載されています。「それはまるで、世界の終わりのように思えた」とのセリフもつづられています。
このディアさんが体験した1945年7月16日午前5:30に起きた爆発は、おそらく20世紀で最も重要な出来事であったと言えるでしょう。
「州警察は軍キャンプでの偶発的な爆発だと言っていたが、私にはそれが世界の終わりのように見えたんだ」
しかしながら、それを自身の目で目撃した人々ですら、その爆発の真の重要性を知るまでには、約1カ月を要することになったのです。彼らは何の予備知識もなく、その重要な原子爆弾の爆発の始まりを目の当たりにし、説明もないまま約1カ月すごしたというわけです。ですが当然とも言えますが、そこには既に違和感を訴える声も多々あったようです…。
そのころ、何百人もの科学者とともに何千人もの補助人員が、人口の少ない地域へ一晩で移動していたりしていました。さらに、ニューメキシコ州の大草原を走る列車には生成色のシートがかぶせられた巨大な装置らしき荷物が積まれ、厳重な警備とともに何日もかけて運ばれていたわけですから…。さらにはこの爆発によって、南南東へおよそ306km離れたテキサス州エルパソのビル群の窓をガタガタと鳴らし、爆発音もとどろかせていたのです。
それでもなおアメリカ合衆国陸軍省は、この爆発が当時の新兵器である原爆によるものだということを秘密にし続けていたのです。どのようにして原爆をつくったかは、原爆投下40周年(『ポピュラー・メカニクス』誌1985年8月号の記事なので)の間に何度も語られてきました。ですが、「そんな原爆をどうのように隠し続けてきたのか?」は、深い闇に覆われた物語になるでしょう。
今日(『ポピュラー・メカニクス』誌1985年8月号の時点。アメリカ合衆国エネルギー省は、1990年代になってやっと米核開発に関する公文書の公開を始めていますが、未だに機密扱いされている文書も少なくない)でも、この原爆実験に関連する何百もの文書が存在してはいますが、未だに機密文書のままで公開されていません。「トリニティ実験」が行われた「トリニティサイト」のあるホワイトサンド・ミサイル発射場での爆風後の放射線濃度観測結果に関するいくつかの文書も、未だ入手できていないのです。
また、この原爆実験が行われていから数週間後の1945年8月、広島で爆弾が投下されるまでに、どれだけの情報が漏洩したかを明らかにしている通信記録も未だ隠されたままなのです。
調査で明らかになった、驚くべき事実
・当初は一般公開されていながら、見聞されていなかった数十の文書が、1970年代になって突然機密になりました。
・1945年のニューメキシコ州知事は、原爆が実験の翌月である8月に広島へ投下された後まで、その内容を知らされていませんでした。
・トリニティ実験の翌日には、幾人ものFBI捜査官が主要新聞社を訪問し、そのテストに関して投げかけられるであろう質問を事前に握り潰していきました。
アメリカ国民に対して、このトリニティ実験を説明することを任された国防総省高官は、「3つの異なるストーリーを準備していた」と言っていました。ですが実際には、半ダース…つまり6種類の言い訳が用意されていたのです。これまで明らかにされていなかった中には、ニューメキシコ州アラマゴード地域において民間人の死者が出た際の言い訳に関して書かれたストーリーがありました。ですが結局のところ、死者は出なかったので、最も単純なストーリーが公開されたというわけです。
原爆開発から実験場周辺の警備…正門から数十個の実験棟に至るまで、非常に整然としていました。簡素でありながらも上品なつくりでありつつも、その表面下では秘密を守るために手の込んだネットワークが存在していたようです。このセキュリティーネットワークを代表する人物が、「ロスアラモスのファーストレディー」として知られるドロシー・マッキビン(Dorothy McKibbin)氏です。
「来訪者が来たときの私の仕事と言えば、彼らが快適に感じるようにすることと、彼らを目的のところへ連れていくこと…。そして、いかなる質問に対しても答えないようにすることでした」と、マッキビン氏は短いインタビューの中で語ってくれました。原爆が投下されるまでの2年間、彼女はニューメキシコ州北部の山間部の町ロスアラモスで公式の出迎え役をこなしていました。
マキビン氏の仕事と言えば、研究施設に到着した職員を出迎え、そして宿舎へと案内することでした。そしてアポイントなしの訪問者はすべて、マッキビン氏によって追い払われることになっていたのです。
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