私が今、「お母さん」「姉さん」と慕っている人に、血の繋がる人は、誰ひとりいない。
辛いことがあったとしても、甘えられる人、すがる人はいない。
置屋で暮らす芸舞妓は普段から着物で日常を過ごしている
例え、落ち込んでいようとも、打ちひしがれていようとも、「お母さん」「姉さん」は決して、ありきたりな優しい言葉で、励ましてはくれない。
本当の父母とは遠く離れ、常に張り詰めた空気の中、血の繋がらぬ人たちと生活をしている。
そんな生活を選んだのは誰あろう、中学を卒業したばかりの当時15歳の私自身だ。
私は「花街」という世界で生きていくことを選んだ。
時に、一人涙するような厳しく辛い下積み時代を経て、少女は300年の歴史がある京都五花街の一つである宮川町で舞妓「ふく典(ふくのり)」となった。
彼女は今、「自分を幸せにせなあかんえ」という血の繋がらぬ母からの言葉を胸に芸を極め、さらなる高みである芸妓になることを目指している。
コロナ禍の京都。その時花街は
2020年、全世界がコロナ禍に見舞われた。京都の高級料亭、老舗旅館、観光イベントはことごとく営業自粛・中止に追い込まれ、舞踊・御囃子(おはやし)などの芸で花街の宴席に興を添える芸妓や舞妓は活動の場を失った。
影響は芸妓や舞妓の歌や舞踊の練習場がある歌舞練場にも及び、5月には120年以上の歴史の中で初めての一時閉鎖を余儀なくされた。
しかし、舞妓を育て、お座敷などへ派遣する置屋「お茶屋しげ森」の女将・谷口三知子さんは、少しも慌てることはなかった。
ご贔屓さんからの物心両面の援助や、京都市を始めとする行政機関からの公的支援の動きが大きな心の支えとなったのはもちろん、「この困難を必ず乗り切る」というゆるぎない信念があったからだ。
女将は次のように言い放つ。「ここは気張らなあかん」と。
待ち焦がれていた舞台の再開
2020年11月には京都五花街の新人舞妓による合同公演が行われ、芸舞妓にとって命でもある舞を披露する場が増えてきた。
お座敷から声がかかるようになり、花街は徐々に日常を取り戻しつつある。
中には、「この先どうなるかわからないし、元気なうちにふく典さんの舞が見たい」と声をかけてくれたご贔屓さんもいた。
「お座敷に出られない間、自主稽古を積み重ねてきた舞を、喜んで見てもらえたことが、とても嬉しかった」とふく典さんは言う。
「あなたは舞妓なんやから、暗い顔はあきまへんえ」
舞妓になって早2年。18歳となったふく典さんは、芸の稽古とお座敷、住居でもある置屋を往復する生活を続けている。
舞妓である期間はスマホを持つことやコンビニに入ることすら許されていない。
たまの休日に女将の許しを得て映画を観に行くことが唯一の息抜きだ。
今でもふく典さんは“お母さん”と慕っている女将から、遠慮のない辛辣な言葉を浴びせられる。
生来、人見知りがひどく控えめな性格であるふく典さんは、自分の心を押し殺すところがある。
お座敷に遅れ、きつく叱られたことがあった。自分を責め気弱になった時に、ふと出身地の栃木訛りが出たりして、さらに叱られる。
「あぁ、また出てしもうた…」
落ち込んで暗い表情になってしまうと、「辛気臭いのはあきまへん」と追い討ちをかけるように女将の言葉が飛ぶ。
さらには、「舞妓は夢を売るお商売。一生に一度、舞妓に会いに来る人もいはるんどす。あなたの体調や気持ちなんて、お客さんにとってはどうでもいいこと」と言い放つ。
「今日は無理しなくてもいいのよ」などという、通りいっぺんの優しい言葉をかけ、労ってなどくれない。
「言うことはわかるけど、辛いなぁ…」と思わずふく典さんの口から漏れたりする。
中学卒業後、15歳で置屋に
ふく典さんは、15歳までごく普通の中学生だった。
「勉強も好きだし、学校も楽しかったです。でも、高校へ行ってやりたいことは見つけられませんでした」
進路を悩む中でふと脳裏に浮かんだのは、修学旅行で訪れた京都で見た、本物の舞妓さんの美しい姿だったという。
「このまま何となく生きるのはやめよう。自分の選んだ世界で生きていきたい」
彼女は誰にも相談することなく、不安な気持ちを抱えながらも思い切って置屋に電話をした。
当然両親は「せめて高校卒業した後にしたら?」とすぐには許してくれなかった。
だが「花街は15歳から入れる。だから今、挑戦したい」と熱意を持って説得すると、最後には納得して送り出してくれた。
ふく典さんは、京都の花街という未知の世界へと踏み出した。
「生まれ変わる」ほどの花街の洗礼とは
覚悟はしていた。しかし予想していた以上に厳しい生活が、少女を待ち受けていた。
置屋に入れば、すぐに舞妓になれるわけではない。
「まずは、言葉遣い。寝言さえ京ことばになるように、女将さんから指導を受けました。その他にも、茶碗の持ち方、箸の上げ下ろし、物の受け渡し、足の進め方、扉の開け閉めなど事細かく振る舞いを直されました」
15年間、体に染み付いた習慣や考え方、性格を全否定されるかのような人間矯正の日々が1年以上続く。
さらに、並行して舞妓になるために必要な舞踊を修得しなければならない。
生活すべてが、花街に生きる人間として相応しい女性になるための修業。24時間気を抜く暇はなかった。
「舞妓は憧れだけでなれるものではあらしまへんどした…」
しかし、挫けそうな度に「親の反対を押し切ってまで来たんだし、挫けたらあかん」と15歳の少女は気持ちを奮い立たせた。
初めて気付く女将の優しさ
約1年の矯正期間を終え、舞踊の師匠と女将から許しが出れば、ようやく舞妓になれる日が来る。しかし修業は終わることなく続いていく。
舞妓はさらに芸を極めた芸妓になるための、3~4年ほどの見習い期間という位置づけでもあるからだ。
日々は待ってくれない。
「明けても暮れても姉さん方(先輩芸舞妓)の支度手伝い、自分のお稽古。睡眠時間もあまり取れず、芸の上達も実感があまり出来しまへんどした」
ふく典さんは「私には舞妓としての素質がないんじゃないか…」と女将に弱音を見せたことがあったという。何をしても叱られてしまう。
いっそのこと「あんた向きまへんわ。里に帰りなはれ」と言われた方が楽になるのでは――
すると、普段は鬼のように叱る女将から、意外な言葉が返ってきた。
「ふく典さん、一緒え。私に出来てあなたに出来ないことはない」
かけられた言葉は女将自らの若かりし頃と重ね合わせ、厳しくも温かく見守っていることを示すものであった。
女将は、ふく典さんが慣れないながらも一生懸命に舞妓としての修業に励む姿に応え、大成するためにあえて厳しい態度をとっていた。
それは、花街で女性が幸せに生きていく方法を熟知しているからに他ならなかった。
「女将さんの表面的なところだけに囚われていた自分に気づいたんどす」。
きつく叱られたことも、苦しかった出来事もすべて忘れ、ただ女将の優しさを感じて、一人涙した。
「私はまだ、普段着の時に『どんな仕事をしているの?』と聞かれたら、胸を張って舞妓だとは言えないんどす」とふく典さんは言う。
それは、舞妓としての未熟さを自覚しているからに他ならない。
女将からの厳しい愛情を受け取り、プロとしてまだまだ精進しなければならないことを分かっているからこその言葉なのだ。
舞妓を支え、花街で生きる人たちの誇り
花街で生きる人は置屋だけでなく、古くから地域全体がお座敷に関わり、共助の中で生きてきた。町の人は厳しい修行に耐えて花を咲かせる舞妓を誇らしく思い、見守り続けている。
週2回稽古をつける長唄の師匠・今藤佐志郎さんは、次のように語る。
「私は、舞妓に技術だけを教えているのではありません。長唄の稽古を通じて、日本文化の心を教えます。舞妓としての誇りを持つために」
また、着付師の職について17年になる中山毅一さんは、舞妓を通して自分の存在意義を実感する。
「わずか15歳にして親元を離れ、気張る姿を見ると『負けられん』と思います。そして、自分が着付けた衣装で舞う舞妓たちの姿を見る時、言い知れぬ達成感を得るのです」
宮川町に住む人々もコロナ禍で仕事は一時的に無くなってしまった。しかし、町では困難を乗り越えるべく、支えあい団結していたという。
花街が300年間継承しているものとは
京都の花街は、今や日本文化の象徴とも言われる。
伝統が息づく場所として、旅行ガイドブックでも紹介され、コロナ禍前には外国人旅行客などもカメラを持って殺到していた。
しかし、女将は「私は日本の伝統文化を守っているなんて、一度も思ったことはありません。ただ、先人から教わった花街のしきたりを守り、魂を伝えているだけです」と、こともなげに言う。
花街で継承される“伝統文化”とは携わる人々がお互いを思いやる形なのかもしれない。
芸の師匠や女将は舞妓に幸せになってほしいからこそ、厳しく芸や振る舞いを仕込む。そこには先人が築き上げ、成功して幸せを生んだ歴史があるからだ。
だからこそ、舞妓の心からのもてなしと魂を込めた舞は、300年間、支える人の心とともに変わらず継承されてきたのだろう。
他人同士が家族以上の繋がりを得られたとき
コロナ禍でお座敷が営業自粛となったとき、ふく典さんはこう感じたという。
「置屋に住む人たちと、一緒に過ごす時間が多くなり、不思議と安心感を覚えました」
普段忙しくてなかなかじっくりと話せない舞妓仲間に、決して口にはしなかった泣き言や愚痴を思い切って打ち明けてみると、自分以上に悩んでいたことがわかった。
同じ道に生きる者同士、そうした心の通う会話をすることで、まるで実の家族のような繋がりを強く実感したのだという。
「女将さんからは、舞妓活動が出来ないのだから、諦めて帰ってもいいという言葉も出ました。でも、緊急事態宣言が解除されるまでの間、誰一人として、置屋を離れる人はいませんでした」
「自分を幸せにせなあかんえ」という女将の人生哲学
女将は口癖のように舞妓たちに言っている。「自分を幸せにせなあかんえ」と。
その言葉の裏側にあるものは、己を甘やかし、精進を怠れば、決して幸せにはなれないということだ。
ふく典さんはその言葉を深く心に留めている。日々精進を重ねる中で、自分の大切な人たちと「自分を幸せにする約束」をしていることを実感するのだ。
両親や郷里に残してきた人たち、そして女将や花街の人とも。
私が知った「幸せ」
ふく典さんは今を幸せだと語る。
「私の生活には多くの制約があり、人から見たら不自由な生活だと思われるかもしれません。でも、私には応援してくれる女将さん、姉さんとお互いに理解し合える仲間がいます。さらには、ご贔屓さんや芸事の師匠、花街に生きる人たちが日々、温かい言葉をかけてくれます。街を歩けば、見知らぬ人から『舞妓さんだ!』と喜んでもらえます」
「だから、今後も自分を甘やかすことなく、精進していくことが『私が幸せになる約束』どす」
女将は言う。
「『自分を幸せにせなあかんえ』というのは、置屋の舞妓でいる今だけでなく、女としてこの先の長い人生も一生幸せに生きてほしいということなんどす。卒業した子も“ただいま”って帰ってきてくれはりますし、舞妓辞めて声優さん目指して東京にいる子も上手に私を使うてはりますしね」
「私は自分のしたいことを全部させてもらっているので、それを見ている子どもたちが“なんでも出来るやん”と思えるように育てるのが私の使命ちゃうかな」
血のつながらぬ母との約束。それが果たせた時、ふく典さんは次の世代にバトンを渡せる花街の人間になれるのだ。これこそが、日本の伝統文化を継承していくことに他ならない。
女将の谷口さんは続ける。
「花街で教えてもろたことを次の人に残していかんと、自分が生きてる意味がない」
花街で300年もの間、受け継がれてきた思いやる心と魂。その継承は2021年も、粛々と力強く続いていくのだろう。
取材協力/京都宮川町 お茶屋しげ森
取材・文/末原美裕(京都メディアライン)
撮影/坂本大貴
※当記事はサライとLINE NEWSとの特別企画です。