文学って、おもしろい!「林芙美子」
林芙美子は、幸うすい星の下に生まれました。母親はキク、父親は行商人の宮田麻太郎といわれますが、戸籍にはその名が記されておらず、生誕地も山口県の下関説と福岡県の門司説があり、はっきりしません。
麻太郎の浮気が原因で、キクは6歳の芙美子をつれて行商人の沢井喜三郎といっしょに宮田家を出ていきます。これが芙美子の放浪生活の始まりでした。
行商で生計を立てる母親を助けるため、芙美子は小学生のときから、九州の炭鉱町で、一つ1銭のあんパンを売り歩きました。家はなく、安宿暮らしで7度の転校。それでも彼女の文才を見抜いた教師の励ましもあって、広島県立尾道高等女学校(いまの県立尾道東高校)を卒業しました。各地を放浪した芙美子にとって、尾道は思い出深い「旅の古里」でした。
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。
(『放浪記』から)
卒業後から『放浪記』で世に出るまで、芙美子はどん底の貧困生活の苦労を味わいました。露天商、銭湯の下足番、牛飯屋の下働き、株屋の雑用係、毛糸店の売り子、セルロイド工場の工員、出版社の封書書き、産院の手伝い人、カフェの給仕など、当時の女性の仕事のほとんどを経験しました。
そうした境遇にありながら、プライドと文学の志を失うことはありませんでした。
1930年に芙美子の放浪生活をつづった『放浪記』が刊行されると、一躍ベストセラーになりました。折しも、日本は「昭和恐慌」と呼ばれる大不況のまっただ中で、倒産の嵐が吹き荒れ、ちまたに失業者があふれていました。
「金だ金だ金が必要なのだ!」
『放浪記』は、こんな八方破れの文体で書かれていますが、貧しくとも雑草のようなたくましさで生き抜く彼女の姿に多くの読者から共感が寄せられました。
人は苦労を重ねると、人格が玉のように磨かれる場合と、コンプレックスの裏返しで我を通す場合の両方があります。どうやら芙美子は、後者であったように思われます。
人気作家となってからの彼女は、「成金趣味」「上流階級気取り」などと批判されましたが、それは彼女の大衆的な無邪気さのあらわれなのでしょう。
貧乏暮らしの苦しさを体験している芙美子は、新聞社や出版社からの原稿の依頼に次々に応じたので、50年には、10本の連載小説をかかえていました。こうした過度の執筆が健康をむしばみ、彼女は心臓まひで急逝します。47歳でした。
芙美子が色紙に好んでしたためたのは、次の言葉でした。「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」
・生没年 1903~51年
・出生地 いまの山口県下関市説と福岡県北九州市門司説がある
・本名 林フミコ
・代表作年 『放浪記』『続放浪記』(ともに30年)、『清貧の書』(33年)、『牡蠣』(35年)、『うず潮』(48年)、『浮雲』『めし』(ともに51年)など
おまけコラム
『放浪記』が売れる前、編集者が芙美子を訪ねてきましたが、浴衣さえ売りつくした彼女は、赤い水着で応対しました。貧乏な放浪生活から流行作家になった芙美子は、競争相手の出現にとても神経をとがらせて、特に同性の作家の進出を妨害するような言動が、ひんしゅくやうらみをかうことが多かったと伝えられています。
芙美子の葬儀委員長を務めた川端康成は、あいさつで「故人は自分の文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいことをしたのでありますが(中略)死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許してもらいたいと思います」と述べました。
* *
解説 岡山典弘 愛媛県松山市生まれ。松山大学および自治大学校卒。愛媛県庁勤務を経て、現在は松山大学非常勤講師(日本文学)、文芸評論家、三島由紀夫研究家、エッセイスト、作家。
外部リンク