オリコンの週間ランキングで1位を獲得した楽曲は50曲以上、ベスト10入りした曲は130曲を超え、総売り上げ枚数は5000万枚以上にものぼる作詞家、松本隆(72)。太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(1975年)、寺尾聰の「ルビーの指環」(1981年)、松田聖子の「赤いスイートピー」(1982年)、ランカ・リー=中島愛の「星間飛行」(2008年)など、数々の大ヒット曲を生み出してきた男が、その半世紀以上にわたる歩みを振り返る。(取材・文:宗像明将/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
ジャニー喜多川と筒美京平がいたから、新たなヒットが生まれた
1969年に、細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂と「はっぴいえんど」(当初の名前はヴァレンタイン・ブルー)を結成し、その活動が終わった1973年に職業作詞家としてデビューした松本。日本のロック、歌謡曲、J-POPを生みだしてきた。
松本が、新しいヒットを共につくったと振り返る、思い出深い人物がいる。2019年にこの世を去った、ジャニーズ事務所の創業者であるジャニー喜多川だ。
「僕と細野さんで作った小坂忠さんの『しらけちまうぜ』(1975年)を、まだマッチ(近藤真彦)がいた頃のジャニーズJr.の課題曲みたいなものにしてね。マッチにも『スニーカーぶる~す』(1980年)でロックンロールさせてあげた。ジャニーさんは、そういうのを僕につくらせたかったんじゃないかな」
ジャニー喜多川は、松本に100万枚のセールスを求めたこともあった。KinKi Kidsの1997年のデビューシングル「硝子の少年」だ。その注文を松本と山下達郎は請け負った。
「ジャニーさんのプロデュース力だね。マッチの『スニーカーぶる~す』のときも『ミリオンね』って言われたけど、あのころジャニーズはミリオンの前例がなくて。KinKiは『Kissからはじまるミステリー』と『ジェットコースター・ロマンス』を先につくって、それでも物足りなかったみたいで、もう1曲頼まれて、『硝子の少年』ができた。その時点ではふたつもお蔵にしてるわけ、名曲を(笑)。それぐらいデビューシングルは丁寧につくられていった」
松本が、新たなヒット曲のかたちを求めて切磋琢磨したと挙げる、もう一人の人物がいる。2020年にこの世を去った、希代のヒットメーカーである作曲家の筒美京平だ。松本と筒美は、約380曲もの作品を生み出した。シングルで見れば、1975年の太田裕美の「木綿のハンカチーフ」をはじめ、実に30年以上もコンビを組んだ。
「出会ったときにすでに職業作曲家としてはナンバーワンで。京平さんは歌謡曲という旧い枠組みのなかでジャンルを超えた名曲をたくさんつくっていたけど、ロックに対しては憧れのようなものを持っていた気がする。口では『はっぴいえんどなんて知らない、売れなかったんでしょ?』みたいなこと言うんだけど(笑)、でも興味はあるわけ。そういうものを全部ひっくるめて、僕は理解しようとしたし。切磋琢磨しながら付き合って。僕も助けられたし、彼も僕に助けられた部分があったと思う。そうやって一緒につくった作品が今も評価されて数多く残るのはすごく嬉しいことだよね」
はっぴいえんどの仲間であり、多くの楽曲をともに作った大瀧詠一は2013年にこの世を去った。1曲をのぞくすべてを松本が作詞した大瀧の1981年のアルバム『A LONG VACATION』は、何度も再発を重ね、これまで200万枚以上を売り上げている。
「明るくてポップなんだ、あの人は。日本には、そういう人はすごく少ないよね。松田聖子も、明るくてポップだから演歌にならない。それはすごく僕にとってレアな宝物だった。『瞳はダイアモンド』(1983年)のとき『失恋の歌をつくろうと思うけど、ふられたことある?』って言ったら『ないです』って言われて(笑)。それが本当かどうかはわからないけど、すごいポップでいいなと思った」
東京は限度を超えておかしくなってきちゃった
はっぴいえんどの1971年のセカンドアルバム『風街ろまん』のレコードは、ジャケットを開くと、街を走る路面電車が描かれている。それこそが松本の原風景である「風街」だ。彼が育った渋谷、青山、麻布をイメージしている。しかし、現在松本が暮らしているのは神戸、京都だ。
「東京が限度を超えておかしくなってきちゃった。特に渋谷。東横線で渋谷駅についたら、地下5階ぐらいにいきなり来てさ。もう浦島太郎。地上にも出られない(笑)。『何これ、ダンジョンか?』みたいなさ(笑)。ホテルの部屋から見下ろすと、穴ぼこだらけなわけ。もう慣れ親しんだ街ではなくなってしまった。子供のときに住んでいた青山も、昔は普通の住宅街で、1964年の東京オリンピックのときにいきなり道路になっちゃったんだけど」
そんな松本の目には、現在の東京はどう映るのだろうか。
「僕自身はそうなりそうな予感がしたから、さっさとどいたって感じだね(笑)。関西っていうのは、やっぱり日本の文化の発祥地でさ。特に食の文化は、歴史の積み重ねなんだ。やっぱり京都は和食、神戸は中華がいいしね。食はでかいよ。特に年取ると(笑)」
今後の自身の活動については、こう即答する。
「もうやりたいことないよ、全部やりつくしたから。若手はもう、僕のこと怖がっちゃうでしょ(笑)」
とはいえ、作詞活動50周年を記念するトリビュートアルバム『風街に連れてって!』には多くの若手が集まった。昨年、「夜に駆ける」が大ヒットしたYOASOBIからは、幾田りらが参加。その歌唱を松本も絶賛する。
「すごくうまいよね。あと、池田エライザや川崎鷹也も。今回、亀田誠治がプロデューサーとして腕を奮ってくれた。基本に忠実で、原曲へのリスペクトがありながら、トータルにバンドソングみたいな感じで、そこに僕のヒット曲の詞が乗ると、一個のバンドで歌手が11人いるよう。若手からベテランまで世代も作品の時代も超えてというのは、これまでに編まれてきたカバーアルバムと同じだけれど、何か一味違う内容になったのは亀田君の功績でもあると思う。ものすごい求心的でありながら、拡散してるみたい。詞で縛ってるカバーアルバムなんて、海外でも珍しいと思うんだ。そういう意味でも光栄の極みだなって」
はっぴいえんどはシティーポップのはしり
それにしても、松本の書く歌詞はなぜ日本人の心をつかみ続けてきたのだろうか。
「よくわからない(笑)。僕は学級委員には選ばれないような人だから。どちらかといえば、クラスにひとりかふたりいる変人なんだよ。そういう人間がさ、なんで大衆の気持ちをつかめたのかなんて、自分でもよくわからない。僕はサブカルが本当は普通だと思っていて。だから、はっぴいえんどは水が合ってたけど、作詞家になって、ずっと居心地が悪いんだ。椅子に座っていばりだしちゃうと、人生終わりだなと思ってる。で、今はもう、座りたくても椅子がないわけ(笑)」
松本は、日本語でロックの作詞をはじめたが、当時はロックは英語で歌うべきだという批判もあったため、「日本語ロック論争」が巻き起きる。そして、1973年から松本は歌謡曲の世界へ進出するが、そこでも「歌謡曲に行った裏切り者」と言われることになった。近年は、日本のロックの歴史を語るとき、はっぴいえんどが重視されると「はっぴいえんど史観」だと揶揄する人々もいる。
「はっぴいえんどはエイプリル・フール(松本が細野らと1969年に結成したバンド)から日付も発言もはっきりしていて、全部最初からオープンになってる。なんにも史観の作りようがないはずなんだけど(笑)」
はっぴいえんどの1971年のアルバム『風街ろまん』に収録されていた『風をあつめて』という楽曲は、今年公開の映画『うみべの女の子』の挿入歌となり、現在も聴き続けられている。その理由も、「わかんないな」と笑う。
「あれはさ、散歩して気持ちいいっていう歌(笑)。東京生まれ、東京育ちの目線で、都市を書いたら面白いんじゃないかなと思って。第1号がはっぴいえんどの『しんしんしん』(1970年のアルバム『はっぴいえんど』収録曲)で、雪が都会に降ると汚くなるのを歌った。あれがシティーポップのはしりだと思う。こういう話をすると、また歴史を捏造してるとか言われるんだよ(笑)。だけどそれまでの東京の歌って、たとえば『東京だョおっ母さん』(1957年の島倉千代子のシングル)みたいな地方出身者の視点の歌が多かった気がして。詞の世界観の話だけどね」
下積みゼロで作詞家に
この日の撮影と取材は、松本がかつてはっぴいえんどとして出演した渋谷のロック喫茶、B.Y.Gで行った。地下のライブスペースに、松本が叩くドラムが響く。約半世紀を経ても、その演奏ははっぴいえんど時代を彷彿とさせる。
「ドラムはたぶん高1のときに買ってもらって、高2ぐらいで全国大会で優勝したんだよね。細野さんに会ってから『おまえは下手くそ』と言われて、『俺は下手なのかな?』と思ったぐらいで、ドラムで苦労した記憶がない(笑)」
その細野こそが、いつも書籍を手にしていた松本に作詞をするように言った人物だった。
「はっぴいえんどのときに詞を書き出したから、詩人としてのアマチュア時代もないんだよ(笑)。いきなり『ゆでめん』(アルバム『はっぴいえんど』の通称)をつくって、『風街ろまん』をつくって。解散したあと、どうやって食おうかと思って、作詞家になろうかなと思ってさ。他人のために仕事として初めて書いたのが、チューリップの『夏色のおもいで』(1973年)とアグネス・チャンの『ポケットいっぱいの秘密』(1974年)。2曲ともヒットしてくれたから、また下積みゼロだった(笑)。仕事をくれた知り合いには感謝しかない」
プロデュース業にも進出し、1973年から1974年にかけて数々の名盤を生み出したものの、その後しばらくの間、プロデュース業はやめることになった。
「僕の同級生が作ったレーベルが、プロデュース料をくれなかった(笑)。プロデューサーという職業は日本にはまだ根づいてなかったんだ。作詞家っていうのはすでに認知された職業だったから、ヒットさえすれば食えるわけで、その選択はしたよね。ドラムもそのときにやめた。細野さんがYMOで大ヒットしたときに歌謡曲に引きずりこんだんだけど、一緒にテクノ歌謡をつくりながら、『松本、いいときにドラムやめたな』って褒められたよ(笑)」
松本は、「毛細血管まで、自分がきちっとコントロールできてないと気に入らない面がある」と語るほどの完璧主義者だ。だからこそ、ロックやポップスのシーンで活躍していた仲間である細野や松任谷由実などを歌謡曲の世界へ招き入れた。太田裕美や松田聖子のプロジェクトに長く関わることで、作詞家としてだけでなく、再びプロデューサーとして新しい音楽シーンを牽引することとなる。
「力っていうのは、同じ方向を向くと加算されて倍になるわけ。ところが、作詞家と作曲家が逆の方向を向くと半分になってしまう。だから、自分と同じ方向に向ける作曲家を連れてくるのが一番手っ取り早い。『お金を払ってやるから、俺の言うこと聞け』っていうタイプのプロデューサーが多いけど、僕はそれを愛でやったんだ。だから、仕事も愛でできたんだよ。愛があるから、みんなお返しで愛してくれる、みたいな。それははっぴいえんどのときから、ずっとそうだった。あんなに才能ある人たちが周りに集まってくれたのは、きっとそういうことなんだろうなって思う」
松本隆(まつもと・たかし)
1949年、東京都生まれの作詞家/ミュージシャン。中学3年の時にドラムを始める。慶応大学在学中の69年に細野晴臣・大滝詠一・鈴木茂とロックバンド「はっぴいえんど」を結成し、ドラムと作詞を担当。72年のはっぴいえんど解散後、作詞家へ転身。75年、太田裕美「木綿のハンカチーフ」のヒットにより注目を集める。81年、寺尾聰の「ルビーの指環」が『第23回日本レコード大賞』を受賞。数多くのヒット作品を手がけ、作詞家として2000曲以上を提供。作詞活動50周年を迎えた今年、トリビュートアルバム『風街に連れてって!』をリリースした。