文学って、おもしろい!
川端康成は、肉親の縁が薄い人でした。1歳のときに父を失い、翌年に母、7歳で祖母、10歳で姉、14歳で祖父が亡くなり、孤児になりました。
そんな逆境にめげず、勉学に励み、東京帝国大学(いまの東京大学)に進みます。在学中に刊行した文芸誌「新思潮」がきっかけで、文壇の実力者・菊池寛から引き立てを受けるようになりました。
作家としての地位を確立した作品が、二十代の終わりに発表した『伊豆の踊子』です。
若桐のやうに足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうつと深い息を吐いてから、ことこと笑つた。(『伊豆の踊子』から)
主人公の「私」は、一高(旧制の第一高等学校)の学生で、孤独な心を抱えたまま一人で伊豆を旅していました。雨の中を歩いて、天城峠の暗いトンネルを抜けると、踊り子の一行と道連れになったのです。
踊り子の名前は薫。よく光る黒い目が印象的で、花のように笑う美しい少女でした。17歳くらいに見えますが、実は14歳で、汚れのない心の持ち主なのです。「私」の姿を見つけると、露天風呂から裸で飛び出して手を振るほど、無邪気で純真で可憐な少女でした。
自分の性質がゆがんでいると反省を重ねて、その息苦しさに耐えきれないで伊豆を旅していた「私」は、踊り子と出会うことによって、心が洗われ、いやされていきます。
物語に出てくる天城峠の暗いトンネルは、青年が大人に成長するための「通過儀礼」の象徴であり、暗い過去と決別して明るい世界に踏み出すことを暗示しているのかもしれません。
『伊豆の踊子』は青春の日の「淡い恋心」を叙情詩のようにうたい上げた作品ですが、『雪国』では、狂おしくて切ない「大人の恋」が描かれています。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」は、あまりにも有名な冒頭の文章です。
主人公の島村は、汽車に乗ってトンネルを抜けます。雪深い温泉場で彼を待っているのは、駒子という芸者でした。駒子は不思議なくらい清潔な印象を与えました。唇がぬれて光り、白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、美人というよりも何よりも清潔でした。
駒子は雪国の生まれで、三味線と踊りの師匠の家に住んでいました。島村を案内した彼女の部屋は屋根裏で、かつて繭から生糸をとるための蚕を飼っていた部屋でした。島村には、駒子も蚕のように透明な体でここに住んでいるかと思われました。
東京在住の島村は、駒子が待つ雪国を訪れます。二人の頭上には、天の川が輝いていました。織姫と彦星は、年に一度しか会うことができません。
・生没年
1899~1972年
・出生地
いまの大阪市北区
・本名
川端康成
・代表作
『伊豆の踊子』(27年)、『浅草紅団』(30年)、『雪国』(47年)、『千羽鶴』(52年)、『山の音』(54年)、『みづうみ』(55年)、『古都』(62年)、『たんぽぽ』(72年、未完)など
おまけコラム
川端康成は、『雪国』などの作品が海外でも高く評価されて、1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞しました。
川端康成は、小説家になる前に「文芸時評家」として文壇に登場しました。鋭い批評眼の持ち主で、少年少女の作品まで幅広く原稿を読み、「新人発掘の名手」でした。
北条民雄の『いのちの初夜』の価値をいち早く見抜いたのは川端でした。女流文学にも関心を示し、岡本かの子らを引き立てました。芥川賞の選考において、太宰治が最も気にしたのも川端の評価でした。
とりわけ大きな功績は、三島由紀夫を文壇に送り出したことでしょう。16歳で『花ざかりの森』を発表し、天才少年として注目された三島ですが、文壇デビューは川端の推薦で『煙草』が文芸誌に掲載された21歳のときです。師弟関係にあった2人は、後にノーベル文学賞をめぐって火花を散らしました。
* *
岡山典弘 愛媛県松山市生まれ。松山大学および自治大学校卒。愛媛県庁勤務を経て、現在は松山大学非常勤講師(日本文学)、文芸評論家、三島由紀夫研究家、エッセイスト、作家。
外部リンク