文学って、おもしろい!「坪内逍遥」
坪内逍遥は、少年期から読本に熱中し、芝居に心ひかれた人物でした。旧東京大学で、本格的に文学を学んで文学士となり、後に早稲田大学の教授として後進の指導にあたりました。
逍遥は日本の近代文学のさきがけといわれ、評論・小説・戯曲・翻訳などに健筆をふるいました。1884年、イギリスの劇作家・シェークスピア(1564~1616年)の『ジュリアス・シーザー』を『自由太刀余波鋭鋒』という歌舞伎風のタイトルで翻訳。こんにちでは「生か死か、それが問題だ」と訳されることの多い『ハムレット』の有名なせりふを「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ」と訳しました。
逍遥は、文学論『小説神髄』を著し、「人情」……つまり、人間の内面心理を描くことが重要であると説きました。この理論を実践したのが、小説『当世書生気質』です。
主人公は、書生の小町田と芸者の田の次。「書生」とは、学業を本分とする若者のことです。明治維新で教育制度が改革されると、東京の高等学校や大学、専門学校で学ぶ書生が現れました。小町田は、英語を学ぶ書生でした。
東京・飛鳥山の花見で、小町田と田の次は偶然に再会します。田の次は「芳」という名の身寄りのない少女でした。小町田の父親が引き取り、2人は兄妹同様に育てられた間柄でした。
ところが、父親が官庁をリストラされて家計が苦しくなると芳は家を出ていき、再び小町田の前に現れたときは売れっ子芸者の田の次となっていました。
小町田と田の次が仲むつまじいのは自然な流れでした。しかし、学校では「勉強家の小町田が女に迷った」という悪いうわさが広がってしまいます。
小町田は、校長先生に呼び出されます。「学業を本分とする者がそんな生活態度では、他の学生に示しがつかぬ」と説教されたうえ、休学処分に。小町田は、悩んだ末に田の次と別れようと考えます。
Pardon me(ゆるしてくれよ)と小町田が。自問自答の独り語(『当世書生気質』から)
大学を卒業した逍遥には、良家の子女との縁談話が次々に持ちこまれました。
しかし、彼は27歳のときにセンを妻に迎えます。センは、逍遥が書生時代からなじんだ女性で、東京・根津の花街(芸者屋などが集まる区域)の出身。不幸な境遇に同情し、彼女の人柄を見こんでの結婚でした。いったん決心したことは、周囲の声に惑わされずに実行する。まさに書生の心意気です。
『当世書生気質』に描かれた小町田の苦悩には、センとの結婚を決意するまでの逍遥の内面心理が投影されているのかもしれません。
・生没年 1859~1935年
・出生地 いまの岐阜県美濃加茂市
・・本名 坪内雄蔵(幼名は勇蔵)
・代表作年 『自由太刀余波鋭鋒』(1884年)、『当世書生気質』『小説神髄』(ともに85~86年)、『桐一葉』(96年)、『沙翁全集』(1909~28年)、『役の行者』(17年)など
おまけコラム
『当世書生気質』には「野々口精作」という医学生が登場します。精作は学業を怠け、親をだました金で遊び暮らす不品行な人物。この本を読んで、青くなった男がいました。野口清作という名の医学の徒です。実在の清作も借金を重ねて遊びまわり、勉強を怠けていました。「モデルと誤解されては大変!」と、あわてて改名。悪い遊びとは縁を切り、心を入れかえて勉学に励みました。
その後、立派な医師になった彼は、細菌学の研究で業績を上げ、ノーベル賞の候補者にも選ばれます。しかし、アフリカの地で黄熱病の研究中に倒れてしまいます。それが野口英世です。現実と小説の偶然の一致が、野口英世を発奮させたのでした。
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解説 岡山典弘 愛媛県松山市生まれ。松山大学および自治大学校卒。愛媛県庁勤務を経て、現在は松山大学非常勤講師(日本文学)、文芸評論家、三島由紀夫研究家、エッセイスト、作家。
外部リンク