音楽はお好き?
「赤い鳥」ってどこにいるの?
今日のお話は「赤い鳥」についてです。演劇になっている「青い鳥」(メーテルリンク・作)と関係がある、というわけではありません。でも、童話という意味では関係あります。これは1918年(大正7年)から36年(昭和11年)まで出版されていた、子どものための雑誌だったのです。
この雑誌は当時、童話作家として活動していた鈴木三重吉が、それまでに学校で歌われていた唱歌が、かた苦しく大人からの一方的な押しつけだと感じ、自分が信じる本当に子ども向きの話や物語を与えようとして始められました。
後に一流の文学者たちがどんどん加わりました。芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、菊池寛、西条八十、三木露風……と記すと、その執筆者たちのすごさが分かります。
みなさんも、こうした作者の作品をもう読んでいるかもしれませんね。なかでも「待ちぼうけ」「この道」などの童謡で知られる北原白秋は、自分で発表するだけでなく、読者の投稿作品の審査員も務めました。
最初は、文章だけが載っている雑誌でした。「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)、「一房の葡萄」(有島武郎)、「ごん狐」(新美南吉)などが今でも有名です。19年には、前年掲載された「かなりや」(西条八十)が成田為三によって作曲され、その楽譜が掲載されました。
こうした動きは「赤い鳥運動」と呼ばれ、音楽活動としても注目されることになり、芸術的な童謡が次々と生まれました。ほかには「からたちの花」(北原白秋・詞、山田耕筰・曲)が今でも歌い継がれています。
しかし、投稿していた宮沢賢治の作品がまったく載らなかったり、内容が実際の子どもの生活からかけはなれていたりという問題もありました。そこで、「赤い鳥」に続いて創刊された雑誌「金の船」(19~29年)には「青い目の人形」(野口雨情・詞、本居長世・曲)など多くの子どもの心をとらえた童謡が発表されたのです。
「赤い鳥」から生まれたのは、どちらかというと今では大人向きの曲となっていますが、小さい人向きの歌を作ろうとして始めた試みだったことは、忘れてはなりません。
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青島広志(あおしま・ひろし)。1955年、東京生まれ。東京芸術大学、同大学院修士課程を首席で卒業、修了。「火の鳥」「11ぴきのネコ」などこれまでに200曲あまりを作曲。著書に『クラシックの時間ですよ!』など。東京芸術大学講師、洗足学園音楽大学客員教授。テレビ出演多数。イラストも筆者
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